ケンタロウさんが17年前に危惧したことは、今も変わっていなかった。/男の料理

「今日から料理男子になれる本」という付録が付いたある女性向け雑誌を読みました。

その雑誌の過去号にはケンタロウさんレシピも掲載され、その出版社からは本も出しています。

男の料理

講談社ウェブマガジン連載「ケンタロウの恋するハッピーメニュー」の豚の角煮には、こんなエッセイがあります。

男が料理をする、ということは、いまだに特別なこととして扱われている。
雑誌の特集や、本や、テレビでも、「男の料理」というコトバはよく目にするけれど、「女の料理」というコトバは見たことがない。
女が料理するのは当たり前のことだという前提が見え隠れする。
あえて男が料理するからこそ、「男の料理」というコトバが成り立つわけで、それはまあ、差別だよね。

結婚前の女の子が「料理ぐらいできなくちゃ、お嫁に行けないわよ」と言われることはあっても、結婚前の男に「料理ぐらいできなくっちゃ」と言ってプレッシャーをかける人はいない。
「最近の女の子は魚を三枚におろすこともできない」と、おっさんが嘆いたりすることはあっても、「じゃあ、おっさんできんのかよ?」と切り返す人はいない。

俺もよく、料理を作っていて、その作り方や出来上がった料理を見た人に、「“男の料理”ってかんじですねー!」と言われる。
そういうときはいつもココロの中で思っている。
「当たり前だろ」。

でもそのぐらい、だれも特別意識していないのに、料理はやっぱり女が作るものだと、いまだにどっかに刷り込まれている。
なんだかおもしろくない。

おれは男女平等を必要以上に大声で叫んだり、フェミニストのヤサ男ぶったりするつもりはぜんぜんまったくないけれど、でもそうやって昔の良妻賢母ふうな考えが刷り込まれているのは、あんまりおもしろくない。
いまどきそんなさ。
まあ。
そもそもフェミニストというのもある意味差別だよなあ。

男が料理をする、ということは、いまだに特別なこととして扱われている。
でもほんとうは、料理なんて男が作っても、女が作っても、どっちでもいい。
特別なのは、そのときの空気や空間や気持ちがあって、男女どちらが作るということ自体は特別なことでもなんでもない。
それに、まずそもそも料理で大事なのは、誰が作るかじゃなくて、何を作るか、だからさ。

引用ページ:豚の角煮|ケンタロウの恋するハッピーメニュー

書籍版「ふたりのハッピーメニュー」(講談社)にも同じエッセイ「男子厨房に入る」(p24)があります。


今日から料理男子になれる本

上のケンタロウさんのエッセイを踏まえて、冒頭紹介した付録を読んでみます。
この付録のコンセプトは、「一切料理がしたことがない男性でもこれを読めば簡単に作れるよ」です。

・いつもは食べる専門
・「たまにはごはん作って」と家族に言われる
・何かを作るのは家庭科の授業以来

若い主婦層もターゲットにしている雑誌なので、料理をしない夫に作ってもらおうという企画なのでしょうが、上の3つからも、
・料理は女性がするもの
・男性は料理をしない
を前提にしているというのがわかります。

一番びっくりしたのが片づけの項目です。
「完璧にできたら家族に褒められる」とあります。
後片づけは、して当たり前です。
褒められるためにするのではありません。
初めてキッチン立つ4歳児に言うならまだしも、いい大人に言うものではありません。
完璧にできたら家族を褒めるのなら、たとえば毎日片付けしている妻や母を毎回褒めているのかという話になってきます。
いかに男性がする料理を特別扱いしているかがよくわかります。

18年前と状況は同じ

ケンタロウさんのエッセイは、2003年に書かれたものです。
時代は変わって、男性も料理をするのが当たり前になっているかと思いきや、そうはなっていません。
もちろん、する人は毎日しています。
わざわざ「男子」と付けられるのを嫌がる人もいます。
一方、まだまだ料理は女性がするものと思っている人もいます。

私も、ケンタロウさんと同じように、男性が作っても女性が作っても、どっちでもいいという考え方です。
作りたい人がすればいいと思ってます。
そこに性別は関係ありません。
したくない人はしなくていいです。
「女性だから」「妻だから」も関係ありません。
仕方なく料理をしても、おいしいものもおいしくありません。
夫婦揃って「食べる専門」も、1つのスタイル、生き方です。

料理は男が作るべきか、女が作るべきか