【ケンタロウさん】野菜の気持ちがわかると、もっとおいしくなる。

野菜の気持ちがわかる人とわからない人がいます。

「おいしく食べることができたらどうでもいい」と言う人は、野菜の気持ちがわかっていません。

野菜の気持ち

ケンタロウさんは、野菜の気持ちがわかる人です。

ぼくが野菜なら

野菜を食べると健康にいいからとか、お肌にどうだとか、栄養がなんだとかそんな理由じゃなくって、野菜がおいしいから、野菜が食べたい。
カラダのために、なんて、ストイックな姿勢はみじんもない。
ブァーッと作ってバリバリ食べるそういう野菜料理が作りたい。
ストイックで味けない料理になるよりも、勢いがあって、いかにもうまそうな料理になるほうが、野菜だってうれしいにきまってる。
ぼくが野菜ならそう思う。

一部引用:「ケンタロウの野菜がうまいッ!」(学習研究社)

もし野菜だったら

野菜を食べよう、というと、いつもなんだか「栄養」とか「健康」という文字がちらつく。
その結果、なんだか「食べなきゃ」という空気がある。
「食べたい」というよりも、「食べなきゃ」という空気が、ある。
野菜を食べなきゃ、体のために、健康のために。

でもさあ、おれがもし野菜だったら、そんなふうに思われてまで、食べてほしくなんかないと思うぜ。
「かーっ、くーっ、うーまーそーっ。食いてーっ」と思われた結果、食べられたいと思う。

一部引用:焼き野菜のマリネ|ケンタロウの恋するハッピーメニュー

書籍版
「ふたりのハッピーメニュー」(講談社)


たまには違う味で

野菜だっていつも同じ味や歯ごたえじゃなくって、たまには違う味で勝負したいと思ってるはずだしな。

一部引用:「ケンタロウの10分ごはん」(NHK出版)


気持ちがわかる人に食べてもらいたい

「野菜に心があるかないか」の議論は意味がありません。
「野菜にも心がある」と信じてる人にしか野菜の気持ちがわからないからです。
野菜の気持ちがわからない人にとっては、野菜はただのモノでしかありません。
野菜の気持ちがわかる人にとっては、1つの命、生き物です。
「野菜のためにおいしく作る」と「好きな人に喜んでもらえるようにプレゼントを選ぶ」は同じです。
どちらも思いを込めています。
思いがなくても、料理はおいしく作れます。
でも、やっぱりちゃんと思いが込められた料理が食べたいです。
それは使われる食材も同じなはずです。
思いを込めて作ってほしいのです。
食材はコマではありません。
命です。
「気持ちをわかりましょう」「思いを込めましょう」という単純な話ではありません。
「今、自分の意識はどこを向いているか」を感じ取ることが大事です。

野菜もおいしく食べてもらいたい

「野菜だっておいしく食べてもらいたいと思っているに違いない」と思えるようになると、野菜を見る目は変わります。